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きりり。次世代の横顔 file. 01 文楽太夫 竹本小住太夫

更新日:2021年1月24日

何か一つの道に邁進している人の言葉は、貴い響きを持って私たちに迫ってきます。 芸という、途方もなく長い道を踏み進んでいく若手にスポットを当てたインタビューシリーズ。 第一回は文楽太夫の竹本小住太夫(たけもと・こすみだゆう)さんにご登場いただきます。

Photo by 武藤奈緒美 Text by 浅野未華

 

1. 18歳、文楽に出会う


伝統芸能の世界は、代々続くような特別な環境で生まれ育った人が受け継いでいくもの、と思われがちですが、さにあらず。 芸能とは無関係の家に生まれ、一般的な教育を受けて育った普通の若者が、ふとしたきっかけでその世界に魅入られ、人生を捧げていたりするのです。 竹本小住太夫さんもそんな一人。 出身は福岡。大学の文学部で学業にいそしんでいた(?)頃、文楽に出会ったことでその後の人生が大きく動き出しました。


――出会いはどんな形で訪れた? 大学時代は、伝統芸能に限らずいろんな舞台芸術に関心が出てきた頃でした。ちょうど玉男師匠(※)が亡くなられた時期と重なって、テレビで追悼番組をやっていたんですよね。NHKの「人間国宝ふたり」というドキュメンタリーの再放送を見て興味を持ちました。絵画や文学は後世に残りますが、舞台芸術はそうではない。今の芸は今だけのもの、見逃してはいけないと思って、毎年12月にある博多座の文楽公演に行ったのが最初です。「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の通し狂言でした。


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――その時の印象は? いろいろな舞台を拝見しましたが、文楽はそれまで出会ったことのないような異質な感じに圧倒されました。わざわざ3人の大人が1体の人形を操って、太夫(たゆう)は太夫で1時間一人でずっと語りっぱなし。「何やろう、これは?」という感じで…。それから気になって観始めて。でもまさか自分がやることになるとは思ってなかったです。 (※初代・吉田玉男。文楽の人形遣いで人間国宝)





2.19歳、至芸に出会う


小住さんの師匠は、人間国宝の7代目・竹本住太夫(たけもと・すみたゆう)師匠。長く文楽界をけん引してきた最長老で、2012年に脳梗塞で倒れるもリハビリを経て翌年舞台に復帰。2014年に引退を発表し、68年の芸人人生に幕を下ろしました。その師匠の芸に衝撃を受け、小住さんは太夫の道を志したと言います。


――太夫になりたいと思うきっかけとなったのはどんな舞台でした? 師匠の舞台はどれも感動的でしたが、印象に残っているのは大分のいいちこ音の泉ホールで行われた素浄瑠璃の会です。「沼津」を一段語られたんですが、その衝撃が本当にすごかった。終わった後もしばらく椅子から立てない、それくらい魂をゆさぶるような感動がありました。 その頃の私は、能、狂言、歌舞伎、舞踊、落語、講談、浪曲といった古典芸能や、話題になっている現代劇などを、毎月福岡から飛行機や高速バスに乗って、手当たり次第に観に行っておりました。そんな中で、わからないなりにも師匠の浄瑠璃に一番魅せられました。 一方、私の大学のゼミの先生が野澤錦糸師匠(※)とお知り合いで、「文楽観てるらしいけど錦糸さん知ってるか?」と。「もちろん存じ上げております」と言ったら「紹介するよ」となって。その年の博多座公演で楽屋へ案内していただき、住太夫師匠にもご挨拶させていただいて。もう、そこから火が付きました。 (※野澤錦糸。文楽三味線方。1996年~2014年の18年間、竹本住太夫の三味線を務めた)


3.21歳、覚悟を決める


――「なりたい」から「なろう」と決意するまでには様々な葛藤があったと思いますが、最終的に決意を後押ししたのは何だったんでしょう? ずっと(太夫に)なりたいと思っていたんですけど、恥ずかしくてなかなか周囲には言えませんでした。私は普通の家に生まれて親もそういう家柄ではない。芸術の世界、芸人の世界に足を踏み入れるというのを告白するのが照れ臭かったんです。 大学4年になり、就職活動の時期になってもまだ言えずに悩んでいた頃、6月に大阪の文楽劇場で行われた素浄瑠璃の会で、師匠の「桜丸切腹」を聴かせていただきました。このときに、「よし、もう覚悟を決めよう、伝えよう」と思いましたね。


――周囲の反応は? 父には「趣味と仕事は違うぞ」とすぐ言われました。それから「食っていけるのか」と。反対はされましたけど、私は3人兄弟の末っ子で、まあ好きなことやらせてもいいか、という、ちょっとあきらめみたいなのもあったようです。普段はぶすっとしている私が、芸事の話をするときだけ顔が明るいな、と言われたこともありましたね。


――入門はどのように? 当時すでに師匠は新弟子を取らないご方針でした。そこで苦肉の策で錦糸さんとのご縁を頼ってお願いしました。最初は「やめておけ」とか「(住太夫師匠の弟子に)なれるわけないやろ」と諭されました。でも、めげずに何度もお願いをして、「そこまで言うなら伝えるだけは伝える」と口をきいていただき、なんとか師匠にもお許しをいただいて。大学4年の12月の博多座公演で私の両親とも対面していただき、そこで最終確認。「しんどいで」とか「泣きなや」とか言われましたね。


4.飛び込んだ世界、現実の壁


――入門したあとの生活はどんな感じ? 寝るところだけ借りて、あとは師匠の家で三食食べさせていただいて。朝起きて8時頃師匠のお宅へ伺い、1日中お側においていただき、21時頃に自分のボロアパートへ帰るという生活です。 師匠は大変お忙しい。ご自身のお稽古、取材、来客、兄弟子さんたちのお稽古。初めのうちは師匠にお稽古をつけていただくチャンスがなかなかありませんでした。けれど「お前、中入れ」と、兄弟子やよそのお弟子さんたちにお稽古なさっているのを、稽古場の隅に座って特別に見せていただいておりました。お稽古を受けている先輩たちからしたら嫌でしょうね、怒られているところを後輩に見られるわけですから。しかし、私にとっては貴重な経験となりました。今思うと破格の待遇だったなと。


――お稽古以外の時間はどんなことを? 文楽の世界では弟子が師匠の番頭みたいなこともするんです。お客様の切符を手配したり、ご案内状やお礼状を送ったり。楽屋にいらしたお客様の応対もします。それに、師匠の身の回りのお世話をする付き人のような役割もある。それが文楽の弟子。その上で自身も一表現者として舞台をどう務められるかという問題がある。そんな大変なものだとは入る前は思わなかったですね。考えが甘かったです(笑)。


――入門前にリサーチなどはしなかった? それがしなかったんですよね~。研修生だといろいろ情報が耳に入るようですが、私はもう浄瑠璃語り竹本住太夫のおそばにつける、それだけでオッケーというところがあって。入る前は、芸人は舞台だけやっていればいいと思っておりましたが、世間知らずだったんですね。現実は24時間何かに追い立てられて、それが365日。定休日など存在しない、それが嫌ならやめろという世界です。ですので、たまにお休みをいただくと何をしていいのかわからない。部屋の掃除をしたり、散歩をしたりして終わってしまいますね。(小住さんのとある1週間のスケジュールはこちら


5.無私の修行


――入門して何か驚いたことなどはありましたか? 公演のないときは、たとえこれといった用事がなくても毎日必ず師匠のお宅へご挨拶に伺うんです。師匠のお顔を拝見して、師匠のお話を伺うことで徒弟制度における師弟関係のようなものを確認しあう。私の個人的な感情は後回しにして、無私と言いますか、自分を無くす、そういう状態になりに行く。私自身が空箱になって、その中に師匠の教えを詰め込んでいくというか。徒弟制度にしかなしえないものがあるのかなと感じます。

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――芸を受け継いでいくには「我」は捨てなければならない? 先輩から「お前が始めた芸能と違うで」とご注意を受けたことがあります。先人から受け継いでいるものやから、まず真似をするというところから始まる。自分はこう表現したい、というのは後。情を伝えるのが私らの仕事なので、そういう意味で自分なりの解釈や感情表現といった芸に対してのアプローチは必要なんですが、それも型があってのもの。浄瑠璃が形になってないと始まらないんです。逆に型ができてくれば、その型に自然と心情の水が入ってくる。だから心が入ってこないということは器の形(=型)を取り違えているということなのかなと思います。


6.師匠の引退


――師匠が引退されたときのことを少しお伺いしたいのですが。いつ、どこで、どのような形で知りましたか? やめると伺ったのは、2014年2月の東京公演中です。もともと復帰されてから思うような舞台ができなくなったと師匠はぼやいていらっしゃいました。弟子にも厳しいお方ですけど、それ以上にご自分に対しても厳しいお人なので、毎日舞台に立つたびにご自身の中で納得がいかないことがストレスだったんでしょう。1月の大阪公演と2月の東京公演は、同じ「近頃河原達引・堀川猿回しの段」という演目で、師匠としては2か月続けていれば何とか形がつくのではないか、という気持ちがおありだったようですが、1月の大阪でなかなか思うようにいかず、東京に来てもやはり思うようにいかない。そういうときに、私たち弟子3人がホテルに呼ばれまして、「わしやめるわ」と。 ずっと「やめたいやめたい」とはおっしゃっていましたが、それは「やりたいやりたい」の裏返しにも聞こえていました。けれど師匠ももう満足がいかない舞台を務めることに対して我慢の限界に来たらしいなというのを2月は感じていました。ですから半分わかっていた部分もあって。ショックはショックでしたけど、私の中では師匠が倒れられたときのほうがショックが大きかったですね。



住太夫師匠の引退発表を受け、その後行われた4月の大阪公演、5月の東京公演は引退興行となりました。大阪最後の舞台となった演目は、小住さんがこの道に進む決意を後押しした「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)・桜丸切腹の段」。


――白湯汲み(※)でずっと脇にいらっしゃいましたね。どんなお気持ちでご覧になっていましたか? 弟子としておこがましいようですが、無事お勤めになられるようにということしか頭にありませんでした。脳梗塞による後遺症のため、お口の開閉がしづらく、「昔より口が乾燥するんや」と悩んでおいででした。けれどお白湯を持とうとする手にも麻痺が残っている。 いろいろ試行錯誤しながら、どうやったら師匠が以前に近い状態で語れる環境が作れるか。私としては千秋楽を無事迎えられて、興行自体も師匠が得心する形で終わればという思いしかありませんでした。 これで師匠の舞台も聴き納めなんやという思いもありましたが、実際そんな感傷にひたる余裕はなかったですね。「桜丸切腹」は思い出深い演目でもありましたので、大阪公演の初日は白湯汲みしながらちょっと泣きましたけども…。 (※白湯汲み…太夫と三味線のいる舞台(=床)のすぐ脇に控え、太夫に白湯を出す役目。太夫の語りを聴くという修行でもある)



――東京公演の千秋楽が本当の最後の舞台となりました。 語り終えて床の盆がぐるーっと回る、それがその一日の舞台が終わるというだけでなく、70年近く必死になって打ち込んできた師匠の芸人人生の、その最後の舞台が終わってしまうんやなと。そう思うと、言葉にするのもはばかられるものがあります。この感情は自分の胸にだけとどめておこうかなと。


7.文楽の太夫としての語りを


――入門して今年で7年、振り返って何かターニングポイントのようなものはありましたか?


師匠のリハビリですかね。やはり壮絶でした。倒れはったんやからそのまま引退した方が楽ですよ。満足にできない、でもなんとか近づきたいともがく。そこには何かやむにやまれないものがある。言語のリハビリでもお孫さんくらい若い先生に「わしはなんでこんなこともいえまへんのや」と、泣きながら机を叩いて訴えてはりました。あそこまで上り詰めたお人が、どうしてまた、ここでこんな苦労をして舞台に立とうとするんやろう。芸と芸人、師匠と浄瑠璃との間には何か恐ろしいものがある。仰々しいようですが、人の命をとりかねないものがあるんやなと。それを目の当たりにしたときに、自分はこれをやっていく覚悟があるのかなと思わされました。

――「浄瑠璃が好き」とよくおっしゃる方でした。 師匠に「おまえは好きなんか」とよく聞かれます。好きやったらもっと好きになれと。好きにも段階があると。お前はまだわしの目から見ると好きやないと。やはり師匠は本当にお好きなんでしょう。師匠が語ってはると浄瑠璃が本当にお好きなんやなというのが伝わってきます。私のは嫌そうに聞こえるそうです。そりゃいっぱい怒られてますからね(笑)。



――今まで引退なさった方は「一生じゃ足りない」とおっしゃっていますが、途方もない道のりですね。 途方もない。たとえ一生をかけても満足できない。でも最後にはちゃんと文楽の太夫としての語りがしたいです。よく師匠に言われます。その語り方は竹本小住太夫の語り方やない、的野景志郎(まとのけいしろう・本名)の語り方やと。少のうても給料もろうてるプロやったら文楽の太夫らしい浄瑠璃を語れと。いつか「ああ、文楽の太夫さんやな」と思ってもらえるような語り、ふるまいができるようになりたいです。

 

【竹本小住太夫プロフィール】 1988年3月2日生まれ。福岡出身。2010年1月竹本住太夫に入門、同年7月竹本小住太夫と名乗り、国立文楽劇場で「火の見櫓」のツレで初舞台。2016年4月、第44回文楽協会賞受賞。


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文楽の世界では、中卒が最高学歴、大卒は最低なんです。


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【お仕事道具拝見】 床本(ゆかほん)…舞台で太夫が語る浄瑠璃の言葉が書いてあるもの

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