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きりり。次世代の横顔 file. 02 日本舞踊家 花柳源九郎

更新日:2021年1月24日

変化の激しい時代において、誰にとっても未来は不確定要素に満ちています。伝統芸能の世界も、受け継いでいく一方で道なき道を切り開いていかねばならない時代。次世代を担う若手にスポットを当てたインタビューシリーズ。第二回は日本舞踊家の花柳源九郎(はなやぎ・げんくろう)さんにご登場いただきます。

Photo by 武藤奈緒美 Text by 井嶋ナギ

 

1.ひたすら一人で踊っていた子ども時代


数多ある日本舞踊の流派のなかでも、最大規模を誇る、花柳流。 その花柳流のなかでも “実力派の若手舞踊家” として、著しい活躍を見せている源九郎さん。「花柳流師匠の父を持ち、東京藝術大学の日本舞踊科を卒業」というプロフィールから、幼い頃から英才教育を受けたエリート日本舞踊家を想像していたのですが…。



――お父様が、日本舞踊の先生でいらっしゃったのですよね。

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奈良で、父(花柳智人先生)が踊りの師匠をしていたので、生まれた時から周囲に踊りがありました。右も左もわからない頃から、お扇子をオモチャにして遊んでいたというか、自然と踊りに親しんでいたというか。

親にやらされたのではなく、自分が好きだったんです。親の持っていた歌舞伎のビデオを勝手に引っ張り出してきて、アニメと一緒に交互に見ていたような子どもでした。特に、實川延若(※)さんの長唄舞踊『操り三番叟』が好きで、ずっと見ていたというのはかすかに記憶に残っています。

その延長でビデオを見ながらマネして自由に踊っていました。父からは踊りを強制されなかったばかりか、手取り足取りお稽古してもらったという経験もあまりない。たぶん親に教わったのは今までに2回くらいかな。初舞台は9歳だったのですが、その時に踊った『操り三番叟』も父からお稽古してもらった記憶はなく、自主練していましたね。日本舞踊はあまり鏡を使っちゃいけないと言われるんですが、映像を見ながら鏡を見て自分で踊っていた。ちょっと特殊ではありますが、そういう自由な経験がやはり根本にあります。今思えば、強制されることがなかったのがありがたかった。ずっと「楽しい」でやってこれましたから。

(※3代目實川延若:1921〜1991 上方の歌舞伎役者)



2.歌舞伎役者を夢見ていた少年時代


――自主練だけで踊りが上達したなんて、初めて聞きました…ビックリです。 歌舞伎役者さんのビデオを見て、そのマネをするということが楽しい遊び代わりだったんですよ。もちろん、友だちにサッカーとか誘われることもありましたし、それはそれで付き合いましたけど(笑)。でも、学校が終わって帰宅して、すぐ踊るのがすごく楽しかった。 長唄やお囃子なんかの邦楽が、たまらなく好きだったというのもあります。10歳くらいだったかな、大太鼓が欲しくて何年もずっと親にねだって、誕生日プレゼントにやっと買ってもらったんです。それで、歌舞伎の舞台でシチュエーション描写に使われるドンドン、ドロドロドロ〜みたいなのをいろいろ練習して。これももちろん、自主練です(笑)。 實川延若さんの次にハマったのが、3代目市川猿之助(※1)さんでした。当時は「スーパー歌舞伎」全盛期で、早変わりだとか、宙乗りだとか、もう夢中でした。年に1回は大阪で猿之助さんの公演があって、小学生の頃は親に頼んで必ず連れて行ってもらっていて、最終的には自分で通うようになりました。 中学、高校くらいまでは日本舞踊というより、歌舞伎が好きだったんですね。だからずっと歌舞伎役者になりたかった。「猿之助さんに弟子入りしたい!」と本気で思っていたんです。進学先も東住吉高校という、日本で初めて芸能文化科が設置された学校に入りました。そこは、三味線、狂言、落語、メディア論などを学べる特殊な学校で、卒業したら「上方歌舞伎塾(※2)」に行きたいと考えていました。 (※1 3代目市川猿之助:1939〜 「スーパー歌舞伎」を主催して一世を風靡した歌舞伎役者。現・2代目市川猿翁) (※2 上方歌舞伎塾:関西の一般公募での若手歌舞伎役者養成所)


3.歌舞伎役者を諦めて、藝大をイヤイヤ受験する


――高校卒業後は東京藝術大学に進学されましたね。 やはり歌舞伎の世界は厳しい道なので、周囲に止められまして…。進路をどうしようか迷っていたところに、父が東京藝術大学に日本舞踊科があるということを聞きつけてきました。「とりあえず受けてみたらどうだ?」と勧められて、なかばイヤイヤ受けました(笑)。 僕は普段人見知りで、アクティブに活動する方でもないし、しかも関西しか知らないのに、東京で踊りを習うなんて思いもよらなかった。でもまぁ、もし合格したらそのとき考えればいいか、と思って受けたら、たまたま受かってしまった。振り返るとそれが一番のターニングポイントですね。



――狭き門ですよね。進学してみていかがでした?

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それまではずっと一人で踊っていたようなものだったので、かなりカルチャーショックでした。藝大の日本舞踊科は毎年2〜3人くらいですが、その年は6人同級生がいて、同世代からは本当に刺激を受けましたね。また、それまで誰かに踊りを習うということがほとんどなかった自分が、多くの先生方にめぐり会い、いろんなことを教わりました。なかでも今の師匠である花柳壽應(はなやぎ・じゅおう)先生(四世花柳流宗家家元)は、藝大でのご縁をきっかけに師事することになり、踊りだけでなく、振り付けや舞台づくりについても教えていただいています。同時に舞台出演の機会も徐々にいただけるようになり、自然と今の道に進んでいた、という感じです。



4.踊りの喜び


半ばイヤイヤの受験、消極的な進学であったにも関わらず、自然とこの道を進んでいた源九郎さん。別の道を選んだようでいて、最初にあった役者、表現者としての欲求が形を変えて結実したようにも見えます。


――踊ることの醍醐味、喜びはどんなところにありますか? 日本舞踊の醍醐味のひとつは、「語りに合わせて踊ること」なんですね。例えば、バレエなら音楽に合わせて踊る。だけど、日本舞踊は、長唄や清元などの歌詞に合わせて、パントマイム的・演技的なフリで踊ります。 人見知りで、人前で何かをするのは苦手な僕ですが、舞台に出ると、役に入り込んでそういうことはどうでもよくなってしまう。自分でも不思議だなぁと思います。時々言われるんですが、僕は舞台に出ると憑依するタイプ。『走れメロス』という舞台に出演した時、僕はメロス役だったので舞台上を走り回っていたんですけど、舞台に「セリ」の大きな穴があるのも構わず走っていて舞台監督さんに「危ないーッ!」って叫ばれて。後で、「憑依してしまってたから、止まりが効かないかと思った」と言われました。



――憑依しているときはどんな感覚なんでしょうか。

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そうですね、役にのめり込んでいる状態ではあるんですが、でもその一方で、お客さんが「ちゃんと見てるな」とか「興味持ってないな」とか、そういう客席の温度はすごく気にしています。

例えば、踊りで拍手を貰えるような振りってありますよね、エビ反りとか。でも、作品によって「あまり拍手を良しとしないな」という時は、拍手が来そうな寸前でパッと止めたりとかします。そういうところは、壽應先生に振り付けや舞台演出を教わったことの影響があるかもしれません。プロデューサー的視点と言いますか、客席の空気はかなり敏感に読んでますね。

ただ、「良く見せよう」という欲が出てしまうといい踊りにならないので、無心で踊れる状態にもっていけるよう、稽古の段階から精神的なコンディションの調整をしています。それが一番難しいんですけどね。



――踊っていて最高に楽しい瞬間は、どんな時でしょうか。 実は、本番よりもリハーサルの時に生演奏が入った瞬間が、最高にたまらないなぁ、と思いますね。稽古場で初めて生演奏に合わせて踊る時の快感といったら、鳥肌ものです。 そもそも僕自身、邦楽が大好きなんです。三味線の音色も、お囃子の強い音も大好きで。日本舞踊の舞台で演奏される邦楽って、長唄や清元などジャンルはいろいろありますけど、たいていは三味線、唄、囃子などによる「大人数による邦楽オーケストラ」なんですね。あの大人数での迫力はたまらないですよね、ゾクゾクします。あんな邦楽オーケストラに合わせて踊れるなんて、贅沢だなぁ、といつも思います。


5.舞踊家としての夢


――日本舞踊家というのは具体的にはどういうお仕事なのでしょう? 日本舞踊家の仕事には、一般的に「師匠業」「振り付け師」「プレイヤー(踊り手)」の3つがあると思います。僕は、現在は花柳壽應先生のお手伝いをしているので、先生の助手的な役回りで代稽古や振り付けのお手伝いをさせていただいたり、藝〇座(げいまるざ)」(※)の公演などでプレイヤーとして舞台に立ったりしています。

できれば、僕はプレイヤーの仕事を第一でやっていきたい。プレイヤーとしての新たな道を切り開きたいと思ってるんです。だけど、日本舞踊の世界は師匠業で食べている人がメインで、プレイヤーの仕事だけでやっている方って、なかなかいらっしゃらないのが現状で…。


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――どのようにその道を切り開いていこうとお考えですか? まずは日本舞踊を、映画を見たかのように楽しんでいただけるものにしたい。エンターテイメントとしての日本舞踊の公演をつくっていきたいんです。 日本舞踊の公演は、かつては社交場としての役割みたいなものがあって、お客さんはだいたいお互い顔見知り、というようなところがあった。現代でもその流れがまだ残っていて、客席を埋めるのは身内が多い。そうではなくて、商業ベースにのった日本舞踊の公演を打ちたいですね。 僕はもともと役者になりたかったので、エンターテイメントとしても楽しんでもらえるような公演で踊りたいし、そういう公演を作っていきたい。僕が所属している「藝〇座」も、そうした試みのひとつでもあります。今度、「藝〇座」でN.Y公演を行うんですけど、海外ももちろんですが、まずはやっぱり国内で、そうした公演を定着させたい。僕の目標であり、夢です。 (※藝〇座:東京藝術大学の卒業生で結成された、日本舞踊家集団)


6.道なき道を


――時代に合わせたあり方を模索していかなきゃいけない、と。

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若い世代ほど、今の時代や社会とのギャップを感じていると思います。それは日本舞踊そのものというより、日本舞踊の世界と現代とのギャップというか。 僕は3代目市川猿之助さんの影響を受けているので、基本的に、アンチ魂があるんですね。猿之助さんは、「歌舞伎は大好きだけど、歌舞伎の世界はこのままじゃいけない」という使命感を持って活動された方。そんな猿之助さんにどっぷり浸かって育った僕なので、僕のなかにも、そういうものがある。だから、日本舞踊のこれからについては、本当に考えますね。「道なき道」を歩んでいかなきゃいけないな、と。




【花柳源九郎プロフィール】 1981年1月26日、奈良県生まれ。2003年、東京藝術大学(日本舞踊科)卒業。2007年、『流星』で文部科学大臣奨励賞受賞。2013年、『走れメロス』で舞踊批評家協会新人賞受賞。


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芸名の由来は、『義経千本桜』に出てくる源九郎狐。そう、大ファンだった3代目市川猿之助さんの当たり役から勝手にいただきました。実は、名取になる時に、30個くらい名前の候補を出したんですが、ことごとく花柳流の中で重複していてダメで、これだけが通ったんですよ。








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日本舞踊というのは肉体的に意外とハードですが、特にトレーニングみたいなことはしていません。昔、水泳をやっていたんですけど不必要な筋肉がついて踊りのフォルムが崩れちゃうので、止めました。踊りに必要な筋肉は踊りの稽古で鍛えています。






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【お仕事道具拝見】 扇子入れ


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「踊り用の扇子2本と手ぬぐいを入れられるので、重宝してます。扇子2本と手ぬぐい1本は、踊りのお稽古に最低限必要なものなので、どこへ行くにも必ず持って行きます。ほかにも、小道具であるバチを入れたりすることもありますね。この手ぬぐいは、僕が今付いている花柳壽應先生からいただいたもので、桜の花と柳が染められた花柳流の柄です」



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