「なぜ能楽師は高齢でも現役でいられるのか?」 40代で若手と言われ、サラリーマンが現役を退く60代でやっと中堅、70~80代で円熟期を迎え、現役で活躍するという能楽師の世界。 下掛(しもがかり)宝生流ワキ方能楽師の安田登氏は、高齢でも現役でいることを可能にしているのは能の中にある身体技法によるものである、と著書で説く。 650年もの間、途切れることなく受け継がれてきた能には、現代では失われてしまった日本人の身体性が残されている。けれどもそれは能だけに限らず、長く受け継がれている伝統文化の中にはかつての日本人の身体技法があり、そこに何らかの共通点があるのではないか。また現代にも通じる合理性があるのではないか。 そんな視点から、開催されたこちらのイベント。
「日本の身体技法 ~能楽師、力士、山伏のわざを通して日本人の身体観をさぐる~」 主催:アーツカウンシル東京
能楽師だけでなく、力士、そしてなんと山伏までが一堂に会し、芸能、武道、修験道の3つの分野から日本の身体の源泉を振り返るというこの催し。
プログラムの内容は、
・それぞれの立場から身体観について語る座談会
・彼らが実際に身体をどのように使っているか、参加者が体験するワークショップ
・出演者全員によるミニパフォーマンス
と盛りだくさん。
中でも興味深かった点をレポートします。
■骨で身体を支える 配布された資料の中に、往年の大横綱・双葉山の三段構えの写真があった。足を開いて腰を深く落としているが、下肢は赤ちゃんの足のような、柔らかな輪郭を保っている。 元大相撲力士・一ノ矢(いちのや)さんこと松田哲博さんは、「表層の筋肉にまったく力が入っておらず、骨で体重を支えている状態。非常に美しいですね」と言う。 この、足を開いて膝を曲げ、腰を落とす動きを「腰割(こしわり)」といい、相撲の稽古の中でも一番要となる。松田さんの指導のもと、参加者全員、相撲の腰割にトライした。足を肩幅より広く開き、つま先を外へ向ける。膝の向きもつま先にそろえて開き、そこから身体の重みでストンと腰を落とす。 簡単そうに見えたのだが、股関節が固いせいか膝は外に向かないし、だんだんと足が疲れて太ももがぷるぷるしてくる。この、太ももがぷるぷるするのは表層の筋肉を使っているためだそうで、あまりよろしくない。筋力で身体を支えるのではなく、骨で身体を支えるように身体を使う。そうすると表層の筋肉はゆるめたまま、深層の筋肉を使うという動きになっていく。股関節の機能は、表層の筋力に頼らずに身体を動かす鍵のようだ。
■能の身体の使い方
続いては能楽師・安田登さんによる能の身体の使い方。これも相撲のときと同様、やはり表層の筋肉はできるだけゆるめる。意識するのは身体の中にある軸。足の裏から息を吐いて丹田が地球のコアとつながっているイメージを持ち、一方で頭は天へと引っ張られているような感覚。これによって身体を貫く1本の軸ができるので、それを崩さないように動く。
歩くのも、両腕をかまえるのも、方向を変えるのも、日常生活の身体の使い方とはすべて異なる。例えば歩くときは、脚の付け根から動かすのではなく、ちょうど胃の裏あたりの背中が支点になるように意識する。腕を動かすときは肩ではなく背中から出ていくイメージ。身体の軸や芯を意識することが、深層筋を動かすことにつながるのだそうだ。
相撲の取り組みは2つの別々の軸が一つになる。最終的に勝敗は決まるが、安田氏によると、「勝ちがあるのではなく、1つになっていた軸のバランスが崩れたときに負けが生まれる」のだそう
■昔の力士の現役寿命は今より長かった
能でも相撲でも、深層筋を使うという点で共通しているようだが、松田さんのお話によると、現代の相撲はだんだんスポーツ化されてきて表層の筋肉を使う動きが主体になってきたとのこと。
「ウェイトトレーニングなどもやるようになりましたが、あれは表層の筋肉を鍛えるものです。だけど表層の筋肉に頼るとケガが増える。最近の力士は昔に比べて引退が早いですよね。相撲は本来、そんなに短命な競技ではなかったんです。江戸時代の平均寿命は50歳でしたが、当時の伝説の力士の雷電や谷風らは、45歳前後まで現役バリバリだったんですから」
腰割の体勢からそのまま四股を踏む。重心を移動させ、やじろべえのように左右に傾き、持ち上がったつま先は力を抜いた状態でストンと落とす。今のシコは大きく足を上げるが、昔はそれほど上げなかったそう。そのかわり500回でも1000回でもシコを踏んだとか。「息が長い力士ほどよくシコを踏んでましたね」と松田さん
■「踏む」所作にある共通点
山伏は修業として山に登る。20代、30代の若い山伏より、70、80の山伏のほうが登るのが早いのだそうだ。体力のある若者のほうが早そうなものだが、体力にまかせて登っているうちは何も理解できていない、と出羽三山神社の禰宜(ねぎ)であり、山伏である吉住さんは言う。
「70歳、80歳の山伏は踏む場所を知っているんです。ここに足をついて、ここを登れば疲れないという場所がある。私も初めて自分だけで登ったときにはかなりくたびれたのですが、熟練の山伏のあとをついて登ったらすごく楽だった。最初に登ったときの半分以下の体力の消耗で登れました」
吉住さんのお話には「踏む」という言葉が何度も出てきた。山伏にとって、「踏む」という言葉には大きな意味があるようだ。そして、能の足拍子も相撲のシコも同じ「踏む」であり、いずれも悪霊を鎮め、大地を呼び覚ますという意味があるという。能も相撲ももとは神事。その源流の片鱗が「踏む」所作に残されているようだ。
山伏は禹歩(うほ)と呼ばれる、独特のステップを踏む。陰陽五行の金、木、土、水、火を五角形を描くように順に踏みながら進む
今回のイベントで感じたのは、自分の身体も「もしかしたら使い方次第で目覚める感覚があるのかもしれない、もっと楽な状態があるのかもしれない」ということ。日本人の身体技法については、まだまだ深く面白いことがたくさんひそんでいる。自ら芸能や武道のおけいこを通じて体感するもよし、本などでさらに深く知るもよし。 興味が湧いた方にはこちらの本がオススメです。
『日本の身体』内田樹 著 新潮社
日本人の身体の使い方をテーマに著者と12人の各界の達人が対談。名人の域に達した人というのは、専門が違っても同じ土俵の、深いところで響き合う。その響き合いが非常に面白い。
【対談相手】千宗屋(茶道家)、安田登(能楽師)、桐竹勘十郎(文楽人形遣い)、井上雄彦(漫画家)、多田宏(合気道家)、池上六朗(治療者)、鶴澤寛也(女流義太夫)、中村明一(尺八奏者)、安倍季昌(雅楽演奏家)、松田哲博(元大相撲力士)、工藤光治(マタギ)、平尾剛(スポーツ教育学者)
『疲れない体をつくる「和」の身体作法』安田登 著 祥伝社
能や和の身体技法をテーマにした著作が数多くある安田氏。こちらは単行本から文庫化された人気の1冊。能の身体技法を解剖学的な視点から見直し、身体のバランスを整えるエクササイズへと発展させている。
※記事内の写真はすべて主催者より撮影および掲載の許可をいただいております。
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