top of page

Vol.1 和楽器の音色を支える里

更新日:2021年1月24日

デーンと深く、豊かに響く義太夫三味線の音色。 劇場の幕があき、まだ少しざわめきの残る客席へこの音が響くと、 ひと撥ごとに現実の世界から遊離し、物語の世界へと誘われていきます。 音の源は絹から作られる糸。 それらがどんなところで生まれ、どんな人たちの手によって作られているのか。 ひと目見ようと滋賀県は長浜市の湖北エリアを訪れました。

 

Part1:弦を作る人びと


SONY DSC

株式会社丸三ハシモト社長

橋本英宗(はしもとひでかず)さん

最初に訪れたのは和楽器の弦メーカー「丸三ハシモト」。 かつて北国街道の宿場町として賑わった長浜市木之本町。 今もその面影が色濃く残るこの町で、創業以来変わらない弦づくりを続けています。



◆ 2000本の繭の糸が1本の弦になる 「丸三ハシモト」は、大阪で義太夫三味線の糸作りを学んだ初代の橋本参之祐(さんのすけ)氏が、帰郷して明治41年に創業した老舗の弦メーカー。現在の当主は四代目の橋本英宗さん。お会いした第一印象は「若い!」。伝統芸能の世界はものづくりの現場も含めてとかく年齢層が高めなので、こんなに若い方がしっかり跡を継いでいるなら頼もしい。弦づくりに対する想いも強く、特に絹製の弦へのこだわりと情熱は並々ならぬものであることは、お話をしてすぐに感じられた。


「和楽器の弦はもともと絹から作られていたんです。価格や強度の問題から今はナイロンなどの化学繊維が主流ですが、やはり音色は絹がいい。弦は構造が単純になればなるほど音色は単調になります。例えば一番太い義太夫三味線の一の糸は、およそ2000本以上の繭糸が1本の弦になっている。それ だけ複雑で奥深い音色が出るんです。化繊糸の構造はそこまで複雑じゃない。また、原料となる絹糸 は、座繰り(ざぐり)といって手作業でひいた糸です。機械と違って負荷をかけずにひくので糸に適度な余裕が生まれ、よく響いて柔らかい音が出ます」 ただ絹の糸から弦を作ればいいのではなく、原料となる絹そのものから違うということのよう。しかし、その絹糸の入手が困難になっていると橋本さんは表情を曇らせる。

「日本の繭がないんです。滋賀県も養蚕農家は途絶えました。今は岐阜から仕入れた繭を使ってますが、国産の繭は毎年2割というハイペースで減っていっています」



原料の絹糸(原糸)が1本の弦になる までに経る工程は12ほどあり、そのほ とんどは手作業によるもの。どの楽器の弦も基本的な工程は同じで、太さや撚りのかけ方の違いでそれぞれの特徴が決まる


原料の絹糸(原糸)が1本の弦になる までに経る工程は12ほどあり、そのほ とんどは手作業によるもの。どの楽器の弦も基本的な工程は同じで、太さや撚りのかけ方の違いでそれぞれの特徴が決まる










◆受け継ぐ技術と未来を見つめる目


楽器用には、繭を固めているセリシンという成分をなるべく残した状態で糸にする。セリシンには粘着性があるので、撚り(より)をかけたときに接着剤の役割を果たし、弦にハリと強度を与える。セリシンを多く残して糸にするには繭の水分が多いことが重要で、楽器用には水分 量70%程度の、いわば半生の繭が使われる。半生の繭は保存がきかず、輸入ができない。日本の繭がなくなるということは、つまり今のような弦が作れなくなることを意味する。 若い継承者がいることにすっかり安心していた私たちは、その上流が危機的状況だと知り、冷水を浴びせられたような気持ちになった。もしも日本の繭がなくなってしまったら、それは伝統芸能にとって大きな打撃では…?


三味線の糸。黄色い色はうこんで染める。「同じ弦でも演奏家がどう表現するかで音色はまったく違う。舞台を観に行くと、自分たちの弦なのに、こんな音が出るのか、といつも驚きます」と橋本さん



三味線の糸。黄色い色はうこんで染める。「同じ弦でも演奏家がどう表現するかで音色はまったく違う。舞台を観に行くと、自分たちの弦なのに、こんな音が出るのか、といつも驚きます」と橋本さん





「経営者としては早晩、日本の繭はなくなると想定して次を考えなくてはいけない。中国で技術を指導し、中国産の繭から自分たちが求める糸をひいてもらう可能性も出てくるかもしれない。そうなった場合のノウハウも蓄積できています。原料が変わってもこれまでと変わらないものを作るのが我々メーカーの責任ですから」


跡を継いで17年。最初の10年は工程を覚え、技術を習得するので精一杯。その修行が終わりに差し掛かり、周囲の状況が見えてきた頃、「自分のところがやめたら途絶えてしまう、残していかなくては」という使命感のようなものが芽生えてきたと言う。「絹糸の弦を作るメーカーということを柱にしていきたい」と語る四代目は、先祖代々の技術を継承しつつ、それを生かす未来をしっかと見据えていた。絹弦の良さをわかり、それを使う演奏者がいる限り、橋本さんの作る弦が途絶えることはなさそうだ。

糸に取った節を削り取る仕上 げの作業。指先の感覚を頼りにわずかな節も見逃さない

糸に取った節を削り取る仕上 げの作業。指先の感覚を頼りにわずかな節も見逃さない



Enza

絹弦愛用者からのコメント   

義太夫三味線 : 鶴澤燕三さん

丸三ハシモトさんは奇跡の店です。今、我々文楽の三味線が無事に舞台に出られる のも丸三ハシモトさんあっての事です。私が師匠に入門し、文楽に入座した当時 (1979年)、既に義太夫三味線の糸は橋本三之助商店(現:丸三ハシモト)でしか手に入りませんでした。 日本でただ一軒、つまり、地球上でただ一軒しかない、奇跡の糸屋さん、それが丸三ハシモトさんなのです。 糸の製造には記事をご覧になればおわかりになるように、大変な手間がかかります。しかも、この技術は絶えず伝承しなければなりません。一 旦途絶えれば再生は不可能と言えるでしょう。 しかし、日本の芸はいさぎよいと言いますか、この貴重な糸は、舞台においては消耗品なのです。一の糸は四日程度、ニの糸も二~三日(場合によっては毎 日)、三の糸に至っては毎日、出演前に掛け替えます。もったいないですが、音色を追及すれば、そうせざるを得ません。丸三ハシモトさんに何かあれ ば、それは文楽の終焉を意味するのです。当たり前の 様に舞台に出ている我々ですが、丸三ハシモトさんには皆、常に感謝しております!



Part2:糸を作る人びと


佃三恵子(つくだみえこ)さん

よい音色を出す弦には「座繰り(ざぐり)」という手作業でひいた糸が不可欠。 弦作りのもう一つ上流である生糸を取る現場を訪れました。

SONY DSC


◆ 邦楽器糸の里


賤ヶ岳(しずがたけ)の麓にある大音(おおと)や西山の村は「邦楽器糸の里」と呼ばれ、古くから弦の原糸となる生糸を生産してきた。その歴史は平安時代にまで遡る。その大音でただ一軒、座繰りで糸とりをしているのが佃三恵子さんの工房だ。

「佃平七工房」の看板を掲げた家を訪れると、「だるま」と呼ばれる糸をとるための道具に4人の女性が座り、作業に追われていた。150kgの繭を10日で糸にするのだと、迷いのない手つきで繭の糸口をとり、どんどん糸にしていく。 巻き取られた糸の、内側から輝くような光沢と清々しい白さに思わず目を奪われる。「きれいですねぇ」と言うと、


「このあたりは水がいいからね、糸もすかっと白くなる。金気のある水は糸の色が悪くなるので、うちは糸とり用に賤ヶ岳の水をくんできて使ってるの」 とのこと。この水質のおかげで生糸の生産がさかんになったのだそう。


「昔はねぇ、このあたり一面に桑畑が広がってて、そこらじゅうの家からだるまの音が響いてた。一軒、また一軒と減って今ではうちだけだね」


伝統芸能や伝統工芸の世界では、よくこういう状況に遭遇する。そのたびにもどかしく、はがゆい気持ちに襲われる。なんとかできないかと思う。が、何もできずに無力さを思い知る。


佃さんは20年ほど前にこの仕事を始めた。それまでは父親がやっているのを見ていて「いつかやることになるんだろうな」と漠然と思っていたそうだ。その「いつか」が訪れたのが平成3年。佃さんの工房が持つ「邦楽器原糸製造技術」が国選定保存技術(※)に指定されたのがきっかけだった。

「技術を継承していく義務が出たんです。ちょうどいい機会だなと思って」


楽器用の糸には春蚕(はるご)と呼ばれる、新緑の時期の桑を食べた蚕の繭だけを使う。春蚕は丈夫で質の良い糸がとれ、最高の弦になる

楽器用の糸には春蚕(はるご)と呼ばれる、新緑の時期の桑を食べた蚕の繭だけを使う。春蚕は丈夫で質の良い糸がとれ、最高の弦になる



蛹を孵化させないために繭に熱風を当て、水分70%程度まで乾燥させる。上に置いたツバキの鬼葉の乾燥具合で頃合いをはかる



蛹を孵化させないために繭に熱風を当て、水分70%程度まで乾燥させる。上に置いたツバキの鬼葉の乾燥具合で頃合いをはかる



「だるま」と呼ばれる座繰りの道具。あらたに製造されているものではないので修理を重ねながら使っている



「だるま」と呼ばれる座繰りの道具。あらたに製造されているものではないので修理を重ねながら使っている











◆佃さんの描く未来


「技術を継承していく」といっても簡単ではない。佃さんは近隣から使っていないだるまを譲り受け、工房の規模を少し大きくした。地元の女性に座繰りでの糸とりを教え、今では技術者は8人にまで増えた。お嫁さんにも教えた。技術を守ること、そしてそれを受け継いでいくことに努めてきた佃さん。しかし日本の養蚕は風前の灯火。国産の繭がなくなっては技術の継承もままならないのでは、という思いがよぎる。その点を尋ねてみると、

「養蚕をする人は本当に減ってしまったねぇ。私が糸とりを始めた頃はまだ滋賀県の繭もあったんだけど…」

取りたてほやほやの生糸。繭から出た糸は20本分くらいが撚り合わさって1本の糸となり、木枠に巻き取られる

取りたてほやほやの生糸。繭から出た糸は20本分くらいが撚り合わさって1本の糸となり、木枠に巻き取られる










佃さんはちょっと言葉を切り、「だから蚕も飼おうかなと思って。専業で食べていける仕事ではないから定年退職した人とか、子育て終わった地元の人とかと協力してね。2~3年以内をめどにやれればなと」

と、意外な答えが返ってきた。座繰りの技術を継承していくのも大変だが、養蚕はもっと大変だろう。しかし佃さんの口調はどこか飄々としていて、軽やかだった。消えていくものをただ黙って見てはいない。できること、できそうなことがあればやってみる。

田んぼが広がる大音の風景を見ながら、ここにまた桑畑が広がる日が来るのだろうか。もし来るならその時は必ず再訪しようと思った。


※国選定保存技術:文化財の保存のために欠くことのできない伝統的な技術または技能で、保存の措置を講ずる必要があるものを、文部大臣は選定保存技術として選定し、その保持者及び保存団体を認定している。




Part3:糸とりに挑戦!



SONY DSC

浅井(あざい)歴史民俗資料館


糸とりの現場を見たからには、糸とりも体験してみたい! ということで、地元で行われている糸とり体験教室へ参加してみることに。








◆ 糸とりできんと嫁にはいけん?!


真っ白な蚕を指でつまみ上げて光に透かし、 「お腹のところがすこし透けてるでしょう?繭を作る頃になるとこうなるんです。もう糸を吐こうとしてますね。こうなったら蔟(まぶし)に移してやります。そうすると自分の居場所を決めて繭を作りはじめます」


長浜市にある浅井(あざい)歴史民資料館ではこの日、糸とりの体験教室が行われ、地元の子どもたちで賑わっていた。浅井もまた、古くから生糸の生産がさかんだった土地。毎年開かれるこの体験教室は今年で6回目を数え、浅井で唯一製糸業を営む西村さん一家が指導に当たる。糸とりの実演をしてくれたのは30年のキャリアを持つお嫁さんの則子(のりこ)さん。則子さんの横で真剣な表情で糸をとる子どもたちに混じって、我々も糸とりにチャレンジ!


80°Cの熱湯に浮かんだ繭の表面を小さな藁のほうきでちょんちょんとつつくと、ほうきの先に糸がからみつく。最初は何本もの糸がからみあっているが、それをていねいに引っぱっていくと1つの繭 から1本の糸が出た状態になる。それが糸口。いったん糸口が見つかると、繭はするするとほどけていき、最後は蛹をつつむ薄皮一枚になる。1つの繭からとれる糸はおよそ1500メートル。


「一人前になるまでにだいたい3年はかかります。私は京都から嫁いできて少しずつ糸とりを覚えました。初めてだるまに座ったのは手伝い始めて5年目のとき。おばあちゃんは14のときからやってるそうで、昔は糸とりできんと嫁にはいけんて言われてたらしいです」


養蚕は中国から伝わった技術。その歴史は稲作と同じくらい古く、古事記にも記載がある。「お蚕さん」と呼ばれ、数え方は「匹」ではなく「頭(とう)」。いかに大切な家畜とされてきたかがわかる

養蚕は中国から伝わった技術。その歴史は稲作と同じくらい古く、古事記にも記載がある。「お蚕さん」と呼ばれ、数え方は「匹」ではなく「頭(とう)」。いかに大切な家畜とされてきたかがわかる



西村則子さん(左)に糸とりを教わる。繭から出る糸1本の太さはおよそ3デニール。こんなに細くて長い糸のまとまりが絡み合わずに最後までほどけるのが不思議


西村則子さん(左)に糸とりを教わる。繭から出る糸1本の太さはおよそ3デニール。こんなに細くて長い糸のまとまりが絡み合わずに最後までほどけるのが不思議







◆地域へ伝える伝統の技


戦前まで生糸は日本最大の輸出品。良質な生糸の生産地として知られていた浅井では、農家の9割以上が農閑期の副業として蚕を飼っていたそうだ。どの家も何かしら蚕産業に携わっており、西村さんの家もそんな中の1軒だった。今となっては浅井で最後の1軒になる。「後継者はいるのですか?」と直球の質問をするのがためらわれ、「若い世代で糸とりに携わる人はいますか?」 と尋ねると、二人の娘さんがやっているという。

「忙しい時だけ手伝ってもらってます。糸とりは小さい時から近くでずっと見てたんで、教えなくてもすんなりできましたね」 と則子さん。しかし糸とりの従事者の数よりも、養蚕農家の減少のほうが深刻だと則子さんの夫・英次さんは言う。やはり問題はそこか。そんな西村さんの家では、家長の英雄さん(85)が「地元の子どもたちに見せたい」と7年前から桑畑を作り、蚕を飼い始めた。

「初めてのことだから全部手探りでね。桑畑は冬は雪囲いをしてやらなきゃなんないし、遅霜にやられることもある。蚕だって、適温を保たないと死んじゃう。手間はかかります」


西村さんのところでは現在、5000頭の蚕を飼育している。桑畑も蚕を育てるのも初めての経験で、「いろんな人に聞いたり、調べたりしながら手探りここまで来た」と英次さん

西村さんのところでは現在、5000頭の蚕を飼育している。桑畑も蚕を育てるのも初めての経験で、「いろんな人に聞いたり、調べたりしながら手探りここまで来た」と英次さん







西村さんの桑畑を見せていただいた。見学用とのことで規模は大きくはないが、手入れの行き届いた様子がうかがえた。養蚕や糸とりといった地域の伝統技術や文化を、家族ぐるみで次世代へ伝えていこうとしているのだな、できる範囲でなくさない努力をしているのだなと思った。

私たちが劇場で伝統芸能を楽しむことができるそのはるか上流には、こうした人たちの努力がある。同時に、蚕が吐き出す糸が人の手間と知恵によって様々なものへと形を変え、価値を生む、そのすごさにもあらためて驚く。いつまでもこの音色を聞き続けるために、私たちはどうしたらいいんだろう?そんな宿題を持ち帰る旅となった。


閲覧数:95回0件のコメント

関連記事

すべて表示
bottom of page