長唄お稽古も、今回で 4 回目。 夕方、私は薄い唄本と鉛筆、レコーダーをトートバッグに入れて、いそいそと家を出る。
長唄のお稽古に通うようになってから、家での時間の使い方に選択肢が 1 つ増えた。 本を読む。テレビを見る。ネットをする。グダグダする。そこに新たに、長唄を練習する、が加わったのだ。 私の長唄の練習は、何を隠そう、トイレの中で行われる。壁の薄い我が家の中で、一番防音になりそうな場所はどこかと考えた末に辿り着いたのが、トイレだ。 便器に腰掛け、トイレの壁に向かって延々唄い続ける自分の姿を客観的に見ると笑えるけれど、狭くて余計な物のないトイレというスペースは、練習場所として中々に優秀ではないかと思う。なんせ、便器とトイレットペーパーしかないのだから、いかに気が散りやすい私でも、集中する他ない。しかも若干音が響くので、自分の唄っているのが少しだけ上手く聞こえるという補正効果まで付いてくるのだ!
さて、電車を乗り継ぎ、約 1 時間半かけてお稽古場に向かう間も、イヤホンからは先生の唄う「供奴」をリピートで流し続ける。 心の中で先生と一緒に唄いながら(時には唇が動いたり、手が拍子を取ったりしているかもしれない)電車に揺られていると、なんだか愉快な気持ちになってくる。おそらく今、この車両で、いや、この電車全体で、長唄を聞いているのは私一人じゃなかろうか。 車窓を流れていく夕暮れに染まり始めた街並みと、どこか哀愁を帯びた長唄の響きは、妙に相性が良い。明かりの灯ったビル群を眺める私の頭の中を、奴さんが提灯を手に素足で駆け抜けていく。
お稽古場の入口で、まずは日本の伝統芸能をこよなく愛する「ここん」の皆と合流する。 彼女たちの伝統芸能への愛は、深く、広く、果てしない。一方、昔たまたま耳にした長唄の響きが忘れられず、今回の長唄お稽古に飛び入り参加させてもらった私には、伝統芸能は何もかもが、未知。自称・伝芸オタクの彼女たちが目を輝かせて語り合う伝統芸能の世界は、私にとって何もかも新鮮なのだ。
さて、中央に座った政子先生と向かい合って横一列に並ぶと、今日もお稽古が始まる。
長唄のお稽古に通うようになって、大きな声を出すのはこんなにも気持ちが良いことなのだなぁと、改めて気づいた。思えば小中高の音楽の授業でも周りに合わせて適当に歌っていたし、大きな声を出そうと努力したことって、これまで意外となかったなぁ。そう考えると、ウン十年生きてきて、心置きなく声を出して唄うのは、もしかしたらこれが初めてなのかも知れない。それだけでも、長唄を習ってよかったというものだ。
一通り皆で唄った後、いざ一人ずつ唄う段になると、途端に緊張感が増してくる。皆と一緒に唄っていた時はそれなりに唄えている気でいたのに、一人になると、音程もタイミングも曖昧で、頼りないことこの上ない。出だしをフライングしたり、音を外したりしながらも、冷や汗を掻く思いでなんとか唄い終えた。
先生からは、裏声を減らしてお腹から声を出すように言われる。さらに、唄う時に正面を見ないように指摘されて、ハッとする。なんとなく、歌というものは正面を見て歌うものと思い込んでいたが、邦楽ではあまり正面を見ないのが基本なのだという。そう言われてみれば、初めてのお稽古の時からずっと、私は政子先生を凝視しながら唄っていたのだった!だって、背筋を立てて三味線を弾く先生のキリッとした姿は、見惚れるほど恰好いい。
先生を見られないのは無念だけれど、これからは気をつけよう。
一人ずつ順に唄っていくと、それぞれの声の質も伸びも全く違うのがよく分かる。そうか、普段話している時は気が付かなかったけれど、みんな本当はこんな声をしてたんだなぁ。
夜のお稽古場に満ちる、いくつもの声と三味線の音がとても心地良い。
そんなこんなで、お稽古の時間はいつもあっという間に過ぎていくのだ。 あー、今日も楽しかった!実際に長唄を習ってみて、思っていたより難しく感じることも多い。普段聴いているような音楽と違って覚えるのにすごく時間がかかるし、声も思うように出ないし、正座も苦手だ。それなのに、その難しさがちっとも嫌じゃなくて、出来ないことすら楽しいと思えるのが、不思議であり、うれしくもある。 帰りの電車の中でも、まだ耳の奥には先生の張りのある唄声と三味線の残響が残っているみたい。 また次回のお稽古に向けて、私はこれからもせっせとトイレに籠るのだ!
ここん飛び入り部員 つぼ
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