全8回の篠笛のお稽古体験は、先生のご提案で、最終回に一人1曲ずつ自分で選んだ曲を披露することになった。いかんせん音が出ない私は、こんな図々しい策に出た。 1.とりあえず小曲を一つ仕上げ、一応の達成感を味わいたい! 2.その上で、憧れの長唄「娘道成寺」にもチャレンジしてみたい!(先生の三味線と一緒に演奏してみたい・・・グフフ。) 欲張りも甚だしいが、先生は笑顔でお許しくださった。
ということで、自宅に戻りまずは小曲「京の大仏」にとりかかる。短いし高い音がほとんどないので、指遣いを覚えてしまえば、これはいけるかも!と意気揚々と取り組み始めたのだが、はて、1行吹いた後のカウントがなんだがうまくいかない。次の行にはいつ移るんだ? (1・2・3・4、1・2・3・4…)と胸の奥で数えながら吹き進めるが、1フレーズ終わって次に移るタイミングがどうしても字足らずに感じてしまう。 譜面をよ~く見ると、1フレーズの長さバラッバラ…。
いやいやいやいや。
ふつう、1フレーズが同じ長さで進むじゃないですか。ほら、この「さくら」のように。
録音した先生のお手本を何度も聴き込んで、合点した。 “カウント”が最大のミス。 この曲は“間”で成り立っている。その間は、カウント進行の中では掴めない。曲の進行は“調べ”によって流れるのだ。つまり情緒や調子のこと。大切なのは、曲の“調子”を掴むことなんだろう。そうすると、調べをつなぐ“間”は、数えなくても自然に生まれるんだと合点した。 譜面とにらめっこし、ここは四分音符、ここは八分音符と注意しながら、(1・2・3・4)と進めていた私は、だからこの曲が掴めなかったんだ。生真面目にやる必要はなかった。いや、まじめにする必要はあるんだけど、もっと全体をふわっと掴む感じでよかったんだと気づき、肩の力が抜けた。
日本文化における“間”なんて耳タコワードだが、まさか、わらべ歌「京の大仏」でその洗礼を浴びるとは予想外だった。 “間”と“調べ”は二つで一つ、表裏一体なのかもしれない。そういえば、俳句の先生も「俳句は意味ではなく調べ」と言っていた。
そんなこんなで、小曲は得てして大曲であった…。 「娘道成寺」、こりゃ無理かな……(笑)
(ここん管理人K)
前回の私の記事で、篠笛奏者の独特の雰囲気について触れたが、その要因は笛の音色だけではないかもしれないと思うに至った。 寛先生曰く、篠笛は唄と同じで旋律を担当するので、自由裁量の部分も結構あるらしい。 三味線や囃子(打ち物)はチームワークが基本なので、予め決められたことを掛け合うのが常。一方で篠笛は、基本一人で演奏するので、その時の出演者陣や会場の雰囲気等々で即興的な演奏や三味線との掛け合いをすることもあるとか! その自立性が篠笛奏者の独特の個性(=調べ)を生み出してるのかなぁ…なんて。 それにしても、何度も篠笛の演奏を聴いてきたが、まさか、そんなジャズっぽいことが行われていたなんて知らなんだ。邦楽って、知れば知るほど、ホントに面白いと思う。俄然その愉しみが解るようになりたくなった!! (三味線も、「玉の手」と言って自由なソロ演奏部分が組み込まれている古典曲もあるんだって~!)
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